[2001.11/12]

その1(ドゥ・ザ・ベンキョー) 
その2(続 ドゥ・ザ・ベンキョー 宝島編) 


その2/サブカル徒

 ボクが「宝島」という雑誌の存在にきづいた時,その雑誌はすでにエロだった。ものの本によれば,「宝島」のエロ雑誌化は1993年頃からということのようである。1992年の,米米クラブ「君がいるだけで」,サザンオールスターズ「涙のキッス」,ドリームズ・カム・トゥルー「決戦は金曜日」,浜田省吾「悲しみは雪のように」,チャゲ&飛鳥「セイ・イエス」などドラマとのタイアップ曲のヒットに続いて,1993年にはZARD,B'z,WANDSなどビーイング系アーチストが台頭,またバンドブームが産み出した最大のスターだったユニコーンの解散も1993年である。バンドブームが終焉を迎え,音楽の発信元がTVに移行したこと,1991年の宮沢りえの写真集「サンタフェ」に端を発したヘアヌード解禁,などの要因を受け紙媒体としてのアイデンティティを模索する「宝島」がヘアヌード誌にシフト変更していった。
 さて,その若者のための総合文化誌だった「宝島」の不在が,それ以降の世代に落とした影のトーンの濃さを感じる。いま,かつての「宝島」と似た雑誌といえば,宝島読者であった赤田祐一が創刊した「クィックジャパン(以下,QJ)」であるといえようが,それを手に取る読者のモチベーションは明かに異なっている。「宝島」は,エンターテイメント的要素の濃いものであったが,「QJ」はあくまでも教養としてサブカルチャーを学ぶための雑誌で,そこに娯楽の要素は希薄であり,多くの読者の購買するきっかけには,サブカルチャーを識ろうという意識が多分に働いていると思われる。その点,「宝島」は,「VOW」を代表とする笑える雑誌として敷居の低さを持ちながらも,浅くないサブカルチャー的教養を読者に自然と浸透させていたのである。何も「宝島」だけではない。「オリーブ」という雑誌から古きよき日本の少女像をもった少女をうみだそうという意識が消え,「ポパイ」には唯物的な立場でのモテ方マニュアルしか残っていない現状,そういったかつて若者への啓蒙機能を果たしていた一連の雑誌の不在は,識ろうという向上心と識りたいという好奇心を持ち合わせていない者には,文化的教養が備わらないという日本人の文化水準に関する危機的状況を招いていると思う。これを深刻であると思うボクは古い人間なのだろう,きっと。ま,別に人のことだから知ったこっちゃないんだが。


その1/勉強 

 いやね,やっぱ勉強はたいせつなんですな。イギリスで活躍した日本人グループ"フランク・チキンズ"について調べててた日の午後に,古本屋に行ったんですが,ちょうど100円コーナーにカズコ・ホーキの本が。そう,そのカズコ・ホーキっつーのが,フランク・チキンズの中心人物で,彼女らについて勉強しなければ,カズコ・ホーキ,誰それ?と見逃すとこだったでしょうが,本当に知識は力だと思うもんです。え?,使い方が違う?。いや,そゆーことですよ,たぶん。
 「勉強しろ!」。それは,ユウザロックの「ザ・グラフィティロック'98」で彼が会場のヒップホッパーたちに叫ぶ言葉。彼は日本におけるヒップホップを作り上げた近田春夫,いとうせいこう,高木完,藤原ヒロシetc.へのリスペクトを忘れないんですよね。それは愛情が彼にさせるものであろうな。衝動や愛情だけじゃだめなんだ,学び知ることが大切なんだ,それは生きのびる術であるだけでない,それは何なのか,を知るためになんだな。
 あ,そうそう,女子中学生2人が揃って自殺しましたね。井戸から出る前に,井戸から出ようとせずに,戦場に出る前に。死ぬしか手段はなかったのか,とたずねたいな。耐えられないなら,耐えなきゃいいと思うけど,耐えない方法はそれしかない筈はないよな。もっとこざかしくなるべきだよ。正しく生きる必要なんてないんだから。サバイブ。


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